フランスファッションの歴史を様々な角度から見てみると面白い!

全くファッションに興味がない人でも、フランスと言えば、パリコレやヴィトン、シャネルくらいの名前は聞いた事があるかと思います。

今回のブログは、服師史とは違った、ちょっと変った切り口で、フランスとファッションと歴史の気になるところを見てみたいと思います。

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シャネルファッションの歴史とユダヤ人社会

サトミーナ
こんにちは!パリのコーディネーター・サトミーナです。(@SatominaS)

シャネルと聞けば、大体の人がバック、洋服、香水、高級、、、などのイメージはできると思います。

シャネルは、世界中の女性が憧れるフランスのファッションブランドで、ココ シャネル(本名ガブリエル・ボヌール・シャネル  )によって創業されました。

彼女は、日本人が思い浮かべる歴史的に有名なフランス人のランキングベストテンに必ず入る常連です。他には、皆さんご存知のジャンヌ・ダルクやマリー・アントワネット、ナポレオンなどがランクインしています。

これが、フランス人が選ぶ歴史上の有名&好きなフランスの人物になると、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)やジャンヌ・ダルクは、ランクインしますが、ココ・シャネル、マリー・アントワネットの名前は見かけません。サッカーのジダン選手や小説家のヴィクトル・ユーゴーなどが上位に入っています。

フランスファッションの歴史に革新的な革命をもたらしたココ・シャネルの波瀾万丈な人生については、たくさんの書籍や映画がありますし、日本には、シャネラーやシャネリストと呼ばれる多くのファンがいます。

彼女は、二つの世界大戦(WWⅠとWWⅡ)を経験しています。今回、私がピンポイントで、取り上げるのが、ココ・シャネルの黒歴史とされる、第二次世界大戦の戦時下の事です。

ナチス占領下のフランスで、彼女は、ドイツの将校ハンス・グンター・フォン・ティンクラーゲの愛人として、ナチスの情報機関のスパイであった歴史的な証拠が残されていると言われています。

ココ・シャネルがナチスの協力者で、アンティセマイト(反ユダヤ主義者)であった歴史があるにも関わらず、世界中のリッチなユダヤ人達に多くのシャネル愛用者がいます。

政治的なことは、ここで、私が意見する立場ではありませんが、欧州にいると、直接肌で感じるのが、ナチスやアンチセミティズム(反ユダヤ主義)などのセンシティブな問題です。

なぜ、ユダヤ人がナチスであったココ・シャネルのブランドを受け入れているのか?について書かれている記事をいくつか読んでみました。

中でも、的を得ているのがやはり、ユダヤ人コミニティー誌によるものだと思いましたので簡単に説明したいと思います。

1924年に、シャネルの代表的な香水NO5が発売されたのですが、その資金を提供したのは、ユダヤ人のピエール・ヴェルトハイマーで、ココ・シャネルに彼を紹介したは、ギャラリーラファイエット百貨店の創業者、ユダヤ人のテオフィル・バデールでした。

その時の株の保有率は、紹介者の彼が20%、ヴェルトハイマーが70%、シャネルは、たた10%しかありませんでした。実質、彼女は、香水の生産には関わっていなかったようですが、香水のビジネスは大成功を収めます。

その後、彼女は、彼らからビジネスの支配権を取り戻すべく訴訟を起こしましたが、上手くいくことはありませんでした。そうしてナチスの時代がやってきました。

ナチスがフランスに侵略する前に、ヴェルトハイマーはNYに逃げていましたが、ドイツが1941年にフランスに侵攻後、ココ シャネルは、ナチスの法律でユダヤの財産や事業の所有権は禁止されていることを理由に、強迫的に、ヴェルトハイマーに香水のビジネスの所有を要求しています。

この彼女の欲求を知っていたヴェルトハイマーは、ナチスの武器商人の協力者を得て、事業を完全にコントロールし、ココ・シャネルに事業を譲り渡す事はありませんでした。

終戦後、ココ・シャネルが、スイスに移住し、仕事から離れていた間も、ヴェルトハイマーは、シャネルに融資し、税金も払い続けました。ココ・シャネルの現役復帰時にも、ヴェルトハイマーがファイナンシャルサポートをしています。

そして、現在のシャネルのオーナーも、ヴェルトハイマー一族であり、この歴史を見れば、ココ・シャネルがアンティセマイトであろうが、シャネルのブランドは、ユダヤ人がいなければ、存続する事は出来なかったということです。

記事を読んでいると、シャネルというブランドは、彼らユダヤ人のブランドと思えてきました。でも、確かにその通りですよね。

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2024.04.07

ココ・シャネルの死後、低迷していたブランドのデザイナーにカール・ラガーフェルドが任命され、彼の素晴らしい創造性とビジネスセンスによって、シャネルブランドが蘇りました。

また、彼自身が、シャネルブランドのアイコンになり、前面に出ることによって、シャネル=ナチスを、完全に忘れさせることに成功しました。

彼は、生前、フランスのニュース番組で、移民問題について、ドイツのメルケル首相に「ユダヤ人を殺害したナチスを受け入れるとは、なんと言うことだ」と「ドイツの最大のクリエーションは、ナチス」というサルカスティックな発言をして、非難を浴びました。

彼は、ユダヤ系ドイツ人ではありませんが、やっぱりポリティックを感じますよね。ユダヤ人社会とは、とても密接な関係であることは簡単に察しがつきます。ファッションとは言え、とても複雑ですね〜。

フランスは、ヨーロッパでユダヤ系の人口が一番多い国で、世界的に見ても、イスラエルを除くとアメリカの次がフランスです。

ユダヤ人と言えば、世界中の金融業、宝石業、医者(特に歯医者と美容整形外科)学者などのイメージがありますが、今のアメリカのgoogle、facebook、スターバックスの創業者も皆、ユダヤ人であることも有名ですよね。

また、アメリカのハリウッドもユダヤ人でできている言われ、世界の芸能からマスコミにも大きな力を持っています。

もちろん、ファッションの世界でも、アメリカならリーバイスやGAP、カルバン・クライン、ラルフ・ローレンもそうです。フランスも同様で、ファッションや芸能界などは、90%はユダヤ系です。

ソニア・リキエルをはじめとしたユダヤ人デザイナーのブランドやユダヤ人オーナーのセレクトやコンセプトストア、パリのファッション展示会の主催者、繊維や生地業、すべてユダヤに支配されてると言っても過言ではありません。

私が住むパリのマレ地区は、有名なユダヤ人街があり、ファッション流行の最先端地区でもあります。土地柄、ユダヤ人の友達も増え、特に息子は、地元なので、小さいときからの友人の多くがユダヤ人です。親友の子もユダヤ系フランス人です。

日本には、日本の良さがありますが、海外に住んで、ユダヤ系やアルメニア系(ディアスポラ)の人たちと実際に接していると、日本人(日系ディアスポラと呼ばれる日系移民もブラジルを初め世界にはいますが、、)まったく太刀打ちできないことを実感します。

彼らの教育方法から、ネットワーク、助け合い、家族や親戚の結びつき、いくら日本人ディアスポラなんて言われても(笑)、全くレベルが違いすぎます。日本人が、異国の地で対等に彼らと勝負して行くのは、始めから無理な話ですね。

ユダヤ人社会ととてもクローズな関係のファッションの世界で、ハイファッションブランドのシャネルの歴史を見てみれば、世界の歴史がわかり、また、それらの歴史を見れば、ブランドの今がわかるような気がします。

世界のデパートの歴史のはじまりは、フランスから

最近は、あまり景気のいい話を聞かないデパート業界ですが、小さい頃から、ショッピングと言えば、デパートに行くの世代の私としては、これからの復活に期待したいところです。

そんなファッションとショッピングが楽しめるお出かけスポットのデパートですが、実はその歴史は、フランスにあるのです。

ハイセンスでお洒落なボン・マルシェ百貨店

パリは左岸の7区にある、ラグジェリーデパートのボン・マルシェは、地元ブルジョワファミリー御用達の百貨店で、本館ファッション館と別館の食品館があります。

実は、新宿伊勢丹も手本にしているとされる、このボン・マルシェは、世界で一番長い歴史を持つデパートなのです。

1838年にヴィドー兄弟が創業した手芸用品などの小間物を販売の大きな店を、1852年にブシコー夫妻が経営に参加し、彼らは店舗を変革し、現在のような百貨店のシステムを開発しました。

私達が、当たり前に思っている、デパートのバーゲンセールやショウウインドー、催し物、値札、チラシ広告、ファッションカタログなどもブシコー夫妻のアイデアから生まれました。

その後、ブシコー夫妻がボン・マルシェを完全に所有し、店舗の拡張に乗り出し、女性の顧客のための女性用洗面所 (フランスのトイレ事情については、こちらのブログ「日本とはここが違う!フランスの文化や習慣の特徴」を参考にしてください。)や、妻が買い物をしている間の夫のための読書室、VIPルームなどを作りました。

また、ブルジョワ顧客への馬車などの乗り物の手配なども開始し、事業を拡大し大成功を収めました。まさに、デパートの礎を築いたのが、ブシコー夫妻なのです。

現在のボン・マルシェの本館の建物は、この時の1869年に建てられたもので、ちょうど日本の歴史では、明治時代が始まった頃になります。また、アールデコ様式の食品館は、1913年に建築されましたが、1915年に火災で壊滅し、1924年に再建されたものです。

ボン・マルシェの近くにある、左岸唯一のラグジェリーホテル「ルテシア」は、ブシコー夫妻が、パリ万博によって鉄道が発展したフランスで、パリのショッピングを楽しみたい地方のブルジョワ女性達を引き付けるために建てたゲストホテルです。

こうした様々な革新的なアイデアな、実業家としての手腕が高く評価されているブシコー夫人のマルグリットによるものです。

彼女は、会社の福利厚生に力を注いだとされ、確かに、私が知る限りでも、ボン・マルシェの正社員の離職率は、少なかったように思います。ただ、現在は、現在は、LVMHに買収され、傘下となってしまっています。

夫の財産を寄付して建てられた、ブシコー病院がパリの15区にあります。マルグリットの生涯は、フランスに朝の連続テレビ小説でもあれば、絶対に主人公のヒロインになっていたでしょうね。

アールデコの美しいデパート:サンマリテーヌ

フランスのパリには、現在、ボン・マルシェ以外に、3つのデパートがありますが、パリのデパートの歴史では忘れてはならないのが、セーヌ川に架かるポン=ヌフ橋の前にあるサンマリテーヌです。

1870年に、アーネスト・コニャックによって建てられた歴史あるデパートのサンマリテーヌは、アールヌーヴォー様式とアールデコ様式の建築物で歴史的建造物に指定されています、

4つの店舗に分かれた、パリ最大の面積を誇るデパートでしたが、2005年に閉鎖され、一部は、テナントショップが入りリニューアルオープンしましたが、メイン館に関しては、長い間、建築物外観保護組合と買収先のLVMHとで、ごたごた揉めて工事がストップしていました。

反対運動は、フランスのお家芸ですからね。(笑)やっと、この問題も解決され、全改装のオープンを心待ちにしていますが、閉店前のレトロでシックなアールデコの内装が魅力的だったサンマリテーヌには、戻らないと思うので、それは、とても残念ですね。大好きなデパートでしたから、、。

当時は、ハイブランドより、新鋭デザイナーブランドからサンティエブランド(パリ2区にあるサンティエ地区の既製服問屋街からのブランドex:クーカイ、Maje、BEL AIRなど)がセレクトされていて、確か、シビラ、ゴルチェなどを見た記憶があります。

現在は、古き良き時代を感じるサンマリテーヌのデパートはありませんが、パリのマレ3区に創業者、コニャック史の邸宅がプチミュージアムとして公開されています。

当時のアールデコ様式の家具やリッチなコレクションが観覧できるので、パリのマレ散歩で立ち寄って見て下さい!このようなお屋敷見学は、自分のお部屋やお家のインテリアのヒントやアイデアにもなりますね。

フランスのインテリアブランドの特徴を大解剖【インテリア好き必見】

2024.04.08

オスマン通りにある二つのデパート

パリの他のデパートには、9区のオスマン通りにある、二つのデパート、プランタン百貨店とギャラリーラファイエットになります。

日本の銀座・プランタンは、撤退してしまいましたが、本店のパリは、ハイブランドを揃えたファッショナブルなデパートです。

ボン・マルシェの従業員だったジュール・ジャリュゾによって、1865年に創業された、古い歴史を持つデパートです。

こちらのデパート、プランタンの美しいアールデコ装飾の外観と円形の屋根も、歴史的建造物に認定されています。

また、何度も改装工事を繰り返して、メンズ館とインテリア館がリニューアルされていますが、おすすめは、メンズ館の最上階のテラス席のブラッセリーです。

お一人様でも気兼ねなく、テラスから遠くのエッフェル塔ビュ−の眺めながら、ワイン片手に食事ができます。

また、観光客で賑わう有名なデパート、ギャラリーラファイエット本店がプランタン百貨店と同じ、オスマン大通りにあります。

上記のシャネルの歴史でも取り上げた、シャネルの香水誕生のキーパーソンのユダヤ人、テオフィル・バデールが彼の従兄弟と、1893年に設立したデパートで、ハイブランドからオリジナルのラファイエットブランドまで展開している大型デパートです。

ショッピングだけでなく、このデパートもアールヌーヴォー様式の内装で、美しいステンドグラスのドーム天井と豪華絢爛な装飾のバルコニーの建築が見事です。本当に、ここは、フォトジェニックなプレイスです。

また、クリスマスのデコレーションも有名です。ドーム天井の下に、巨大なツリーが現れます。また、デパートのウインドーは、まるでアミューズメントパークのようで、毎年、クリスマスになると、ウインドーを眺めにやってくる親子連れで、オスマン大通りの歩道は大混雑になります。

日本の歴史とフランスファッション

歴史の上で、日本とフランスの関わりを見ると、はやり、思い浮かぶのは、幕末やパリ万博の頃です。

ファッションの面で見れば、徳川最後の将軍、慶喜がフランス陸軍ユニホームを着た写真が残されていますね。過去のブログ「フランスと日本の関わりについて考えてみた!」で、簡単に書いていますんので、是非ご一読下さい。

江戸時代、オランダを通じて、既に、フランスの英雄、ナポレオン1世(ナポレオン ボナパルト)についての伝記などが日本入って来ており、それらの翻訳物が出回っていたようです。

余談ですが、フランスの歴史の中で、最も偉大な人物とされるナポレオンですが、フランスでは、ナポレオンを豚の呼び名にする事を禁止しています。フランスでは、豚という動物は、農場の廃物とされているためです。

フィリップ1世(オーギュスト),カール皇帝(シャルルマーニュ)など、他の皇帝の名は、使う事が出来ることを見ても、フランスが、皇帝ナポレオンのイメージを大切にしているかわかりますね。

フランスは、幕府側であったにもかかわらず、維新後の日本の軍隊、とりわけ陸軍には、大きな影響を与えています。また、大礼服や陸軍軍服には、フランスのデザインが取り入れられました。

こうした時代背景から見れば、日本のフランスファッションの歴史は、メンズからスタートしたと言えますね。

幕末の日本女性のファッションは、当然まだ着物で、お化粧すら一般的でなく、(お化粧するのは、遊女くらいでした)明治10年半ば以降、鹿鳴館の時代から、フランスのファッションを手本とするような洋装スタイルを取り入れるようになりました。

鹿鳴館時代の華族の夫人達の礼服ドレスの名称には、ローブ(Robe)やデコルテ(Décolleté)などのフランス語も併記されていたことからも、フランスファッションの影響の大きさを見る事が出来ます。

その後、フランスのモデルがコーディネートされた洋服を着て紹介するファッション誌を模倣したファッション雑誌が明治後期から大正初期に、次々と日本で創刊され、日本女性が熱狂的にフランスファッションに憧れるようになりました。

日本のファッションの歴史から見ても、私達、日本人は、昔から今も、フランスのファッションやブランドに、思い焦がれていることがわかりますね。

現実的には、現地にいると、フランス人だから、パリだから、みんながおしゃれとか、ファッショナブルでということもないので、ただ単に、そうしたイメージが出来上がり過ぎてしまった部分もあります。

また、話は変りますが、2024年からの新1万円紙幣の顔に決まり、最近、注目度が急上昇している渋沢栄一氏は、日本経済の礎を気づいた人物として知られていますが、彼は、徳川慶喜の側近を務めていた時に、フランスで開催されたパリ万博に幕府の使節団の一員としてフランスを訪問しています。

フランスの近代産業の発展を目の当たりにしてカルチャーショックを受けた彼は、日本の近代国家の為に、フランスの経済や金融、経営について調査や研究に没頭したと言われています。

きっと、この時に、デパート発祥の地であるパリで、ボンマルシェやサンマリテーヌなどの百貨店も視察されたのではないでしょうか。

この渡仏が、彼にとっての人生の最大の転機となり、帰国後は、フランスで学んだノウハウを生かし、実業家として、500社以上の設立や育成に関わったことも有名ですが、中でも、彼が携わった事業で興味深いのが、富岡製糸場です。

当時、ヨーロッパ最大のシルク生産地のフランスのリヨンは蚕の伝染病で絹織物の生産不能になる中、江戸時代からから日本は、生糸を輸出をしていました。

そして明治政府は、生糸を日本国の主要輸出品にするために、渋沢栄一は富岡製糸場設立を任命され、フランス技師を雇い、フランスの繰糸機や技術を導入しました。フランス人との契約はコストがかかり過ぎで、赤字だったようですが、契約解除後、日本人経営になり黒字に転換し、外貨を稼ぎました。

世界遺産に登録された木造レンガ作りの工場は、フランス人の設計によるもので、その内装や梁見せ天井などは、パリの流行最先端地のマレやバスティーユ地区に残る古い工場で、現在は、ファッションウイークの展示会場やパリコレ会場として使用されている様式と同じです。

令和3年にあたる2021年のNHK大河ドラマで、渋沢栄一を主人公とした「青天を衝け」が放送されることになりました。脚本家は、テレビ小説「あさがきた」の大森美香なのでとても楽しみです。

ただ、渋沢氏がファッションアイコンだったわけではないので、また、彼のフランス滞在は短かったので、当時のフランスの様子は、大河ドラマでは、スルーされるかな、、とも思っていますけど。

フランス旅行でファッションの歴史が見れる観光スポット

フランスのファッツションは、フランスの貴重な文化です。ゆかりの地、博物館、美術館などが国や市の管轄で運営され、一般公開されています。

パリコレの会場なども、パリ市官舎内のホールや区役所、高校の中にある図書館等が使われます。それらの全てが、歴史的建造物であり、また、パリ市民の日常の生活の中にある空間やスペースです。

パリコレは、誰でも見れることができませんが、フランスの人にとって、ファッションは、身近に感じる文化なのです。

あのルイ・ヴィトンの歴史を辿る

まずは、こちらのブログ「フランスにはパリ以外に隠れた名所がたくさんあります」にも書いた、パリ郊外のアニエール・シュル・セーヌ市に、ルイ・ヴィトン=Louis Vittonの歴史がわかる、創業者の最初の邸宅とアトリエ工場があります。

ルイ・ヴィトンの創業者のバイオグラフィーパネルと、一番最初に作られた旅行バックから年代ごとにわかりやすくバックが展示されている施設会場が、毎年、3月頃から毎土曜と日曜の週末、計12回、少人数の完全予約制(on line)のガイド付きの30分で無料で観覧できます。

ガイドは、フランス語のみで、案内されている途中、私語はNGなので、通訳はできませんが、写真撮影は、OKです。

ただ、見学の予約が30分毎間隔なので、あまりのんびり写真を撮っていると見学グループの後尾についてくるアトリエの係員が「早く進め!」っと急かしてきますので、おちおち、インスタ映えの写真を撮ってる余裕はないです。涙)

旅行バックや世界のロイヤルファミリーのためにオーダーメイドで作られたの鏡付きドレッサーやサッカーのワールドカップの限定バックと、どれも本当に優雅で美しい歴史的な逸品です。

ガイドツアーの最後に、保存されている創業者、ヴィトン家のアールヌヴォー様式の邸宅の一部と庭園も見学出来ます。また、庭園の裏手には、今も現在も使われている、ルイ・ヴィトンで、一番古い歴史ある工房があります。

こちらのアトリエは、1年おきの10月に3日間だけ、特別公開(予約制)しますので、ネットで予約が出来ますが、予約開始日程もはっきりしないのと、人数制限や、3日間だけの公開と言う事もあって、よほど、強運でないとブッキングするのは難しいと聞きます。ちなみに、次の特別公開は、2020年の10月だそうです。

パリのルイ・ヴィトンというとシャンゼリゼ大通りにあるフラッグシップや現代アート美術館のフォンダシオン ルイ・ヴィトンが行きやすいですが、今回、紹介したルイ・ヴィトンの歴史に触れるアトリエメゾンの見学は、シーズンさえぴったり合えば、小旅行気分も楽しめる超穴場の観光スポットです。

ルーブル宮殿にあるパリ装飾芸術美術館

ルーブル美術館があるルーブル宮殿の北西側の先端部が、ナポレオンによって建てられたマルサン パビリオンです。その歴史ある建造物の空間が、パリ装飾芸術美術館=Musee des Arts Decoratif として使用されています。

1905年に開館と長い歴史を持つ美術館で、10年かけて内装工事と作品の修復して、2006年に再オープンしています。

以来、多くのファッション関係者やデザイナー、クリエター、インテリア関係者、デコレター達が訪れ、歴史ある展示品からインスピレーションやアイデアを得たり参考にしているようです。

吹き抜けの美しい天井のエントランスから入るこの美術館は、歴史の年代別に、生活の中で、実際に使われて来た様々なデザインの家具や装飾品などがテーマごと、展示室に分かれて、ディスプレイされています。

美術館の中で一番のメインスポットとされるアールヌボーとアールデコの家具や装飾美術品の展示を初め、イタリアルネッサンス、アシノワズリー、ジャポニズム、モダンデザイン、ビジューなどの歴史を観じさせるコレクションがとても優雅です。

装飾芸術美術館内に統合されていた部門のファッションとテキスタイルの歴史ミュージアムは、3世紀に渡る衣装やアクセサリー、テキスタイル、約152800点以上の作品が保管されてます。

それらの秘蔵のコレクションには、ポール・ポワレや、ポピー・モレニ、マドレーヌ・ヴィオネ、クリスチャン・ラクロア、クリスチャン・ディオール、イヴ・サン・ローランなどの偉大なクリエイターの名が連なっています。

改装後は、残念ながら、そのクオリティーの維持のため、ファッション&テキスタイルの歴史部門は、常時一般公開はしていません。(涙)残念ですね。

ただ、このパリ装飾芸術美術館では、年間を通じて、数多くの企画展が催されています。今までにバービー展やドリスヴァンノテン展、マルタンマンジェラ展、靴の歴史展などが開催されてきました。

また、ファッションとテキスタイルの歴史ミュージアムも公開されることもあるので、見学の予定を組む前には、必ず、パリ装飾芸術美術館のサイトで企画展をシェックして下さい

ちょうど良いタイミングで、フランスの装飾芸術デザインとファッションの歴史がわかる企画展、二つ併せた見応えのある観覧ができたら良いと思います。

ファッションが好きな人に訪れて欲しいミュージアム

パリ市内にあるファッションブランドの歴史がわかる美術館としては、イヴ・サンローラン美術館=Musée de Yves Saint Laurent Parisや、アライヤがアトリエと住まいして使用していたアパルトマンの建物の一画で開催されているプチ展覧会(Alaïa Exhibition)があります。

パリ16区にあるガリエラ美術館=Palais Gallieraは、ファッション関連の企画展が行われる有名なミュージアムです。ファッションに興味ある人には、是非、訪れて欲しい美術館です。長い改装期間を終え、2020年に再オープンの予定ですから、もうすぐなので、待ち遠しいですね。

今までに、マンジェラやバレンシガなどの回顧展、ファッション写真展などが開催されてきましたが、ガリエラ美術館は、企画展のみのイヴェントになるので、必ず、サイトでスケジュールを確認して下さいね。

1894年、イタリアのジェノバ出身の貴族、ガリエラ公爵によって、当時の流行りのボザール様式建築を用いて建てられた宮殿と庭園は、これもまた本当に美しいです!

また、グラン・パレ=Grand Palaisプティ・パレ=Petit Palaisも、今までにも、カルティエ、ブルガリ、バカラなどの企画展覧会を開催しているので、要チェックです。

ファッションに興味がなくても、グラン・パレやプティ・パレは、年間を通して、大規模な企画展覧会を行っているので、他で見る事が出来ないような芸術の逸品を鑑賞出来るはずです。

まとめ

さて、今回は、フランスのファッションと歴史に関して、自分が興味ある点だけを書いてみましたが、ずいぶんとダラダラとひどい文章になってしまいました。

ピンポイントでもう少し、絞りたかったのですが、エピソードや歴史を調べて行くうちに、どんどん面白くなってしまって、妄想モードに入ってしまいました。(笑)

こうやって、いつも、ブログでおススメのスポットを紹介していますが、ホントに、一番行ってみたいところって、タイムトラベルして、フランスや日本の歴史の様々な時代なんですよね。

その時代の街並や人々の生活、ファッションを1日だけ体験してみたいものです。全く、現実離れしていますけど。(笑)